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『数学する身体』からハイデガーへ

2024.02.26

国語の問題集は結構楽しい。ほんの数ページ分の切り取りなのに「この続きはどうなるのかな」と思わせる初めての文章に出会ったり、逆に「この話、読んだことあるな」と出典を見て「ああ、あれか」と納得したり。何回も使っている問題集なら当然その驚きはないが、先日初めて使う問題集で、後者の「読んだことのある」文章に遭遇した。
『数学する身体』森田真生(新潮文庫)。文庫裏表紙の解説には「数学はもっと人間のためにあることはできないのか。最先端の数学に、身体の、心の居場所はあるのか・・・筆者は、アラン・チューリングと岡潔という二人の巨人へと辿り着く。数学の営みの新たな風景を切りひらく俊英、その煌めくような思考の軌跡。小林秀雄賞受賞作」とある。
文章自体は難解ではないので、切り取った部分なら小学生でも読み取ることができるが、全体としては数学の話なのでそれなりにしっかりしている。私など、なんかわかったような気がしてしているだけと思う。興味のある方には読んでいただくとして、数学の語源の話のところでドイツの哲学者ハイデガーが出てきて、ここがいい。少々長いが引用すると

<学びとは、はじめから自分の手許にあるものを摑みとることである、とハイデッガーは言う。同様に、教えることもまた、単に何かを誰かに与えることではない。教えることは、相手がはじめから持っているものを、自分自身で摑みとるように導くことだ。そう彼は論じるのである。
ややわかりにくいかもしれないが、ハイデッガーの言うことを、私はこんなふうに理解している。すなわち、人は何かを知ろうとするとき、必ず知ろうとすることに先立って、すでに何かを知ってしまっている。一切の知識も、なんらの思い込みもなしに、人は世界と向き合うことはできない。そこで、何かを知ろうとするときに、まず「自分はすでに何をしってしまっているだろうか」と自問すること。知らなかったことを知ろうとするのではなくて、はじめから知ってしまっていることについて知ろうとすること。それが、ハイデッガーの言う意味でのmathematicalな姿勢なのではないだろうか。>(P33~34)

ハイデガーは『存在と時間』が有名で私も岩波文庫を持っているが、当然読んでいない(笑)その他著作もいくつか読まずに飾ってある。それでも『ハイデガー入門』のような本を見つけると買ってしまう。ハイデガーの周辺をうろうろすることが楽しい。
なんで?どこがいいの?その答えはしっくりきている『ハイデガー=存在神秘の哲学』古東哲明(講談社現代新書)から。

<理由はじつに簡単。こんな存在の味(意味)について、まともに考え、ちゃんと応接してくれる哲学者は、かれひとりしかいないからだ。>(P13)
<かつて、近代哲学によって「意識の中へ移転された思考を、意識の場所からべつの場所へ移す」こと。「意識というそれ自身ので内で閉じられた場所」に終始した意識中心主義の近代哲学を、解体、破砕し、存在に開かれた現存在という<非意識的>場所へ思考フィールドを移すこと。それが、深きねむりから深きめざめへの変容だ、というのである。>(P85)これでは訳がわからないが
<現存在という術語がでてきたら、<生命のいぶき>と置き換えて読まれたらいい。不鮮明なハイデガーの文章が、とたんにそれこそ生き生きとよみがえるはずだ。
だから思いっきりいいなおせば、ふだん眠っているのは生命のいぶき。めざめさせようとしているのも、この生命のいぶき。そういっていいのではないか。>(P87)

ハイデガーを読み込んだ人の解釈を読んで自分があたかも原文を読んだ気になっているのだが、それはそれでいい。<存在への問い>よりも<生命のいぶきを大切に生きていこう>でいい。
ハイデガーがアリストテレスを引用したという言葉を紹介して終わりとする。(P279)
「だれひとりそれを見ていなくとも、星の輝きがそれによって減じることはない」

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